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嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1756年〈宝暦6年〉 - 1794年6月16日〈寛政6年5月19日〉)は、朝日山部屋(大坂相撲)、玉垣部屋,友綱部屋,雷部屋に所属した元力士〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3151&l=j〕。 本名は三崎と伝わっているが不明〔。身長・体重も不明〔。讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺市)出身〔。 最高位は東前頭3枚目。 筆ノ山(現在の善通寺市内)の麓にある牛飼いの家に生まれた〔善通寺市デジタルミュージアム 五岳山 筆ノ山 善通寺市公式サイトより〕。幼少時より並外れた怪力で鳴らし、通行人を待ち受けては相撲を取ったり、俵を担いだ人を抱いて弘田川を渡ったりしたとの逸話が伝わっている〔。最初は大坂相撲でデビュー。1779年10月場所で、丸亀藩の抱え力士となり、初土俵(三段目)を踏んだ〔。1781年3月場所で東二段目10枚目(十枚目格)に昇進。その後は、成績不振(勝ち越しが一度もなかった)や江戸時代故の記録の散佚により、長く二段目(現在の十両)で燻った後、1792年3月場所で新入幕を果たした。この場所、3勝4敗2休1無の負け越しに終わると、以後二段目に陥落し二度と復帰できなかった。そして1794年5月19日に現役中のまま死去した。39歳の若さだった。墓は筆ノ山の麓にある〔。 幕内通算 1場所 3勝4敗2休1無の成績を残した。 改名歴なし〔。 嚴嶋の死から40年後に、同じ讃岐国出身,丸亀藩のお抱えだった力士が同名で初土俵を踏んだ〈嚴嶋関右エ門 (天保)〉。しかし、彼も東前頭3枚目止まりであり、現役中に入水自殺という形で一生を終えてしまった。それ以降、「嚴嶋」の四股名は止め名と言う形で使われていない。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嚴嶋関右エ門 (寛政)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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